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​拝観

相阿弥作の園池

この庭は室町時代、相阿弥が足利八代将軍義政の命により銀閣寺の庭を作る時、試作的に作ったと伝えられ、苑内に東山(長楽寺山と言う)をとりいれ山腹より湧き出づる滝の水を落として苑池となし「築山庭造伝」(享保二十年1735)にも「相阿弥作」として「庭の景すぐれて自然の趣のあるすがた」とたたえられています。

京都 寺 庭
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相本堂

延歴年間創立、昌泰年中修復(898)、正保年中再建(1644)明治十八年丙丁の災いにあい、廃壊撤却し、明治二十三年西賀茂正伝寺の法堂(元桃山城御成門中に在りしを正伝寺に移したもの)を当寺に譲り受け今日に至ります。「今昔物語」に一条天皇の朝(九六六即位)巨勢広高、本寺新堂の壁に、地獄変の名画を揮毫して名を得たと言います。

梵鐘

梵鐘は明暦三年に鋳造され、その妙音は「長楽寺の鐘」として広く市民に親しまれていましたが、戦時中惜しくも供出され、その後昭和31年に再興、その黄鐘調(おうじきちょう)の音色が蘇り、毎年大晦日の除夜の鐘として鳴らされ、全国に中継放送をされたこともございます。(一般の方も鐘をお突きいただく事ができます)

京都 寺 鐘
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収蔵庫

時宗の宗祖一遍上人を含む七躰の慶派大仏師作遊行上人像(国指定 重要文化財)などを安置しております。

建礼門院御髪塔

建礼門院の遺髪が納められた供養塔。

平家一門、最後の女院、平徳子(建礼門院)は当寺にてご落飾(出家)なされた。

1185年、壇ノ浦の合戦にて、平清盛の娘、建礼門院は船の舳先に追い詰められ、まずは母親である二位の尼が我が子安徳天皇を抱かれて入水され、それを追い建礼門院も入水されるが、くしくも母と子は海の底へと沈まれ、自らは敵方である源氏の兵に引き上げられた。

一旦、囚われの身となるが、京での出家のみ許され、当寺の門を叩かれる。

同年5月1日、当時の住職、浄土宗の名僧、印誓上人に出家を請うべく、形見として大切に保持していた、我が子安徳天皇の直衣(のうし)を御布施として献上なされた。

平家の滅亡と母と子の消失により、憎悪・悲涙の渦中を当寺にて5ヶ月間だけ過ごされ、少し心落ち着かれた後、大原の寂光院に移り住まわれ余生を安穏に過ごされる。

当寺には、建礼門院肖像画や、御布施として献上なされた安徳天皇御衣幡等の秘宝が現存している。

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